近代競馬の誕生は幕末の横浜。
日本の競馬の歴史は以外に古い。といっても中世の、いわゆる「くらべ馬」の時代を言っているのではない。現在のような近代競馬のスタイルになってからである。
日本で行われた最初の近代競馬は文久元年(1861年)、横浜市の州干(すぼし)弁天社裏(現在の横浜市中区相生町5~6丁目付近)の馬場において、居留外国人の手によって開催されたという記録がある。翌1862年からは、現在の中華街あたりに居留外国人達が円形の馬場を作って競馬を開催し、この年の 10月からは正式に番組を決めて競馬を行ったとされる。
出馬表は主に日本馬、支那馬(チャイニーズポニー)、マニラ馬だが、居留外国人が輸入した何頭かの洋種馬も参加。また第一回の正式な番組表には、なんと厩務員による徒競走、すなわちカケッコが組まれている。1着賞金は10ドル(当時はこれで米が5俵ぐらいが買えた)。いやはやのどかな時代だったことが推測される。
1866年、横浜根岸競馬場(現存するが、今は開催は行われていない)が完成。翌年から競馬が行われ、現在の中央競馬の基礎が築かれる。馬券を初めて正式に売り出したのもここで、明治21年(1888年)のことだったが、もちろん競馬といえば馬券はつきもの。それまでにもブックメーカーを通した馬券の販売は行われていたようだ。
馬券発売はその後明治41年(1908年)に一時禁止されたが、大正12年(1923年)安田伊左衛門氏らの努力により復活している。当時の馬券は1枚20円。ちなみに大学卒の初任給が45円だから、恐ろしく高いものだった。
「最初の天皇賞」といわれる The Mikado's Vase が行われたのも根岸で、1マイル2分17秒で「キエン」という馬が優勝した。その後も、いわゆるご下賜品競走が定期的に行われ、これが昭和12年に正式に始まった天皇賞の基礎になったと言われている。
かつぶー≫まぁ、こんな競馬の歴史を知っていても馬券は取れる訳ではないんですが、知っておいて損はないでしょう。現在の「安田記念」の安田は、ここに出てくる安田伊左衛門氏の名前から取ったものですね。今は名馬の記念競走もありますが、そのうち「テイエムオペラオー記念」なんかも出来るかもしれませんね。
大人のための「読む」競馬より 12.29
どれくらい速く走れるか。
馬が全力で走ると、スピードは軽く時速30マイル(48キロ)を超える。しかも健康なサラブレッドならば、その速度をかなりの距離にわたって維持する事ができる。1/4マイル(400m)レース用につくられたクオーター種では、最高時速が時速40マイル(64キロ)を超えることが知られている。1/4マイルレースでのレコード記録を時速に換算するとおよそ平均時速43マイル(69 キロ)になるが、これは例外的な記録である。3マイル(4.8キロ)レースでのレコードは平均時速34マイル(55キロ)に相当する。
史上最長の競馬は、ポルトガルで行われた1,200マイル(1,930キロ)レースらしい。そのレースの勝者はエミールというエジプト産アラブ種だった。そのほかにも驚くほどのスタミナを備えた長距離ランナーとしてチャンピオンクラベットという名の馬が知られている。この馬は300マイル(428.7 キロ)を522時間で走ったという。
初期の障害競走は文字通りのクロスカントリーで、距離も8マイル(13キロ)とか12マイル(19キロ)、あるいは20マイル(32キロ)というのまであった。しかし近年はそのように過酷な試練を課すものはほとんど姿を消し、最高の資質をもつ競走馬が参加する障害競走としては、グランドナショナルの 4.5マイル(7.2キロ)が最長である。グランドナショナルのレコードはレッドラムが1973年に記録した9分1秒9である。平均時速に換算すると、飛越の難しさでは世界に冠たる障害をこなしながら時速29マイル(46キロ)で走ったことになる。
かつぶー≫これを読むとゼロヨンなんてレースがあったんですねぇ。ゼロヨンで時速69キロというと時間に換算すると・・・計算式忘れたわ(笑)。え~と、 20.9秒という事ですかな? これはかなり速いですねぇ。フジミパルテノンが22.2秒、CBC賞のユーワファルコンが22.3秒ですからその速さがわかりますね。トモエリージェントでもちょっと無理かもしれませんね。
グランドナショナルは障害競走でも世界最高峰のレースで、見ていて非常に面白いです。距離が長いのもありますけど、出頭数も30頭くらいいますし、障害の高さがハンパじゃない。日本はまず頭数が揃わないのがつまらないですよね。
※競馬の動物学より 12.20
骨折が直っても能力は戻らない。
出走できる馬が常時5,000頭もいるという中央競馬の競走馬のなかで、レース中の骨折事故のために薬殺される馬が毎年50頭あるといってもたいした数ではなさそうだが、調教中の事故馬が400頭、そのうちの80%までが種子骨、中手骨、毛根骨の骨折で前肢下部の骨に集まっているということを知ったら、そう無関心でもおれまい。
いよいよ直線という4コーナーにかかって急にスピードが落ち、騎手が飛び下りて馬の足元を見る。肢さきがブラブラになった馬が首を垂れて、ものに憑かれたようにゴールに向かって歩き出す。すべての目が決勝を競り合う2頭の馬に向いて大歓声がスタンドを揺るがす。傷ついた馬はなおも歩きつづける。競走馬の明暗を分けるもっとも悲惨な光景である。
ひとたび骨折をおこした馬が治療して戦線に復帰する事は極めてまれである。重症馬は直ちに薬殺、治療の見込みの立つもののうち、すぐれた馬に限って種馬として生き残る。長期の治療の後、ふたたび馬場に姿を見せる馬は、ごく軽症のものにかぎられる。
馬場が荒れているので骨折が多発する。育成中の飼料成分の欠陥が骨折の原因になる。小牧場の乱立で運動不足のモヤシ馬が多いからだ。骨折多発の原因は種々と論議されているが、事故の数は一向に減少しない。発生数のもっとも多い中手骨骨折と種子骨骨折について述べておこう。
レース中または調教中に発生した中手骨の完全または複雑骨折は治療の見込みが無い。治療できるのは、骨の下端から縦にひびが入って骨片がまだ離れていない、ごく軽いものだけである。着地したときに球節をひねって、地面から突き上げられたような形で骨に亀裂が入るのであろう。軽いビッコをひく程度だが、速歩をさせると肢に体重がかかるたびにピクンとする。いわゆる肢跛を呈する。レントゲン線で調べてみると中手骨の下端に縦方向の骨折線を確認できる。消炎療法をほどこしてからギブス包帯で固定しておくか、折れた骨を摘出するか、症状によっていろいろな治療法が用いられるが、半年から1年くらいかけないと直らないから、骨が元通りになっても以前の能力を取り戻す事はむずかしい。
日本の競走馬が世界一と誇れるのは、遺憾ながら種子骨骨折だけである。軽いもので6ヶ月、一般には1年以上も休養しなければならないから、この骨折をおこしたものは戦線復帰を諦めなければならない用途変更で種馬になるか、乗馬クラブでお嬢さん方の相手をするかである。
種子骨骨折はトレーニング中またはレース中の疲労の為に起こると考えられている。種子骨は球節の後部についている左右2つ並んだピラミッド型の小さな骨で、上下左右についた丈夫な靭帯で、あたかも創口につけたカーゼを絆創膏でおさえているような格好でついている。蹄を地面について負重すると種子骨は球節の後下方にずり下がり、蹄が地面を離れて球節がまがると上方にずり上がる。種子骨に骨折がおこるのは、蹄が地面について種子骨が球節の下方にいったとき、上と下についた靭帯が強く引っ張り合って骨を引き裂くような形になるのだろうと考えられている。その証拠に骨に入ったひびは真横の方向についていて、縦にひびが入るのはごくまれである。激しい運動や長距離レースによって筋や腱が疲労してところに馬場が平らでなかったり、蹄の踏みつけの仕方で体重が不平等にかかったり、あるいは着いた前肢に後肢の蹄が突き当たったりしたりして思いがけない強い衝撃が加わった為に種子骨についている上、下の靭帯が互いに引き合って、骨を切り裂くのであろうと説明されている。
ごく軽いものはギブス固定を施して治療したり、骨片を摘出する手術を行ったりする。予後はおおむね不良で競走馬に復帰することは無理である。
骨折は馬体のどこにでもおこる。まれな例だが、上膊骨骨折や股骨骨折などもある。障害物を飛びそこなって頸の骨を折ったり、肩や骨盤の骨を折る事もある。
競走馬には骨折がつきもので、全くの事故によるから予防の方法は無いが、前述した中手骨骨折や種子骨骨折が我が国の競走馬に異常に多い事は統計の数字に表れている通りだ。飼料の成分によるのか、放牧地に灰分が欠けているのか、幼駒時代の運動が足りないのか、これらの原因に関する研究はほとんど行われていないというのが現状である。
かつぶー≫競馬に限らずスポーツをやっている物なら骨折とか怪我はつきものですよね。ただ競走馬の場合はこれが命取りになってしまうのが大きな違いです。原因は堅い馬場だと思われる事も多いですが、私は競走馬自体にも問題があると思いますよ。より速く走るように人間が品種改良し続けてきた結果でもあるんじゃないか、とも思います。また近親配合が多く進むと何かしら奇形がある馬が生まれてくる事も事実です。
結局人間のエゴだと思いますよ。
競馬の科学より 12.14
タカラテンリュウ、スタート電気ムチ事件。
根元騎手を背に、ゲート内で昼寝をしていたと思えるくらい大出遅れを演じたレインボーアカサカ。まともにスタートするとファンが驚いた出遅れ常習犯メジロディッシュ・・・・。
出遅れ、スタート下手な馬も数々いるが、そこに「電気ムチ」というキーワードが加わると、話題の中心はもちろんタカラテンリュウとなる。
昭和56年10月に東京競馬場でデビューして以来、いかんなくクセ馬ぶりを発揮。とりわけそのスタートの下手さ加減で、一部のファンの注目を集めるところとなっていた。
そんな出遅れ常習犯のタカラテンリュウがなぜかの突然の変身。ゲートが開くとポンと飛び出し、そのまんま逃げ切り勝ち。条件特別を2連勝してしまったのである。
「何かがある!」
疑いの目を向けた人もいただろうが、その真相が発表されたのは後のこと。
実はなんと出遅れ癖のあったタカラテンリュウをしっかりスタートさせるため、競馬会職員が電気ムチを使用していたというのである。困ったものである。多少はよかれと思ったことなのかもしれないが、これぞ余計なお節介。公正な競馬のうたい文句が無くというものである。
かつぶー≫レインボーアカサカが大出遅れした札幌記念(まだダート戦だった)、実は私レインボーアカサカから馬券買ってました・・・多分ゲート開いてから 3秒くらいは経ってたんじゃないですかね。もうすでに20馬身くらいは差がついてましたからね。「何でカンパイしないんだ!」と激怒した記憶があります。メジロディッシュは私も好きな馬でした。実況アナウンサーは出遅れると「またまたやってしまいましたぁ~メジロディッシュ」なんていってましたね。それでも終いは追い込んでくるんですよ。今年はラガーレグルスが、まぁあれは出遅れではなくて出てないですからね。
残念ながらタカラテンリュウの時はまだ競馬やってませんでしたのでわかりませんが、電気ムチってどこで使ったんですかね?あのゲート入れるときに使う長いムチに電気走るようになっていたんですかね・・・
競馬おもしろ雑学辞典より 12.5
フェデリコ・テシオ。
テシオは1898年頃からサラブレッドの生産に着手し、北部イタリアのドルメロに生産牧場を開いた。牧場を開いた当初クラシック血統×クラシック血統というごく平凡な配合をして成功しなかった。サラブレッドの遺伝を手の内に入れるまでに6年以上かかったらしい。テシオの快進撃はローマ近郊に牧場を持つ富豪のインテーザ公爵との出会いをきっかけとして始まる。この公爵の牧場を使ってテシオは※二元育成を行い大変な成果をあげる。
テシオがはじめてイタリアの最大レース、ミラノ大賞(Gran Premio di mirano)を勝利したのが1909年。馬産に着手して7年目の生産馬フィーダーによってであった。それ以後は次々とビッグタイトルを手に入れている。イタリア・ダービーの22回、イタリア・オークスの11回、日本菊花賞に相当するイタリア・セントレジャーを10回、皐月賞に相当するパリオリ賞を7回、桜花賞に相当するレジナエレナ賞を4回、有馬記念に相当するミラノ大賞を22回、フランスの凱旋門賞は連勝で2度制し、イギリスのアスコットG・Cを1回制している。これを年産10頭未満の生産馬で勝ち取ったのである。
こぼれ話に聞く噂によれば、このドルメロの牧場も1992年にすべての繁殖牝馬をニューマーケットのセリで売り払い、その長い歴史を閉じたという。テシオの形骸化したノウハウをかたくなに守り、ステイヤーを作ることをサラブレッドの至上任務として運営されてきた古風な牧場であったが、やはり時代の波に勝つことは出来なかったようだ。ノウハウは技術革新してこそノウハウなのであり、時代に取り残されたそれはすでに因襲に過ぎない。そのことは分かっているつもりだが、やはりふと一抹の淋しさを感じる。
※二元育成方式とは
暑くなれば北へ、寒くなれば南へ移動する野生馬の習性をヒントとして見出した、冬と夏で育成地を移動するやりかたである。彼はローマ近郊にあるインテーザ公爵所有のオルジアータを避寒地として利用し、ドルメロは生産と避暑にあてた。
この二元育成方式は現在の米国の育成の主流で、北部のケンタッキー、メリーランド、オハイオなどと、南部のフロリダ、ニューメキシコ、テキサス、カリフォルニアなどを行き来している馬はたくさんいる。これはつまり、日照時間を増やす為で紫外線が骨の成長を助けるという事実は今日ではよく知られている。
かつぶー≫フェデリコ・テシオといえば、16戦16勝のリボーやネアルコの生産者として有名ですよね。テシオは二元育成だけでなく、遺伝を完璧に把握していたらしい。いわゆる配合のプロだったんですね。日本にも高橋勝四郎氏という配合のプロがいたそうです。サンデーサイレンス全盛のこの世の中、一泡吹かせるような血統の馬が出てもらいたいですね。
秘密の日本競馬 血とコンプレックスより 11.29
どれくらい眠るか。
必要とする睡眠の量は、動物の種類によって大きく異なる。猫は1日に16時間も眠る。これは我々の睡眠時間の2倍にあたる。それに反して馬は24時間当たり3時間も眠らないほどである。われわれの通常の睡眠時間の3分の1強である。この違いは勿論猫が捕食者で、馬が典型的な被食者(獲物)であることによる。馬は常にあたりを見張っていなければならず、長い睡眠をむさぼるという贅沢は許されないのである。
厩舎につながれた何頭かの牡馬を注意深く調べたところ、19時間15分は油断無く見張り、2時間は眠り込まずにまどろみ、2時間は軽く眠り、45分間は深く眠るというのが平均的な24時間の過ごし方であることがわかった。
調べられた牡馬たちの睡眠パターンは、人間のそれとも異なっていた。全般的に睡眠時間が少ないだけでなく、短い睡眠時間がさらに短く分断されていたのである。深い眠りはそれぞれおよそ5分ずつの9区分に分断されていた。さらに2時間のまどろみは1区分がおよそ3分半の33の短いうたた寝に分断されていた。
馬にこんなことができるのは、人間と違って4本足でたったままで体を十分に休める事ができるためである。われわれ人間が毎晩8時間も横になって眠らなければならないのは、2本足で立ち続けるためには絶えずバランスをとり続けなければならないからである。4本足の馬にはその必要がない。このことは、馬は 24時間のうち合わせて2時間しか横になって眠らないという事実によって裏付けられる。実際には馬にとっては横になるよりも立って休む方が楽なくらいなのだ。横になる方がエネルギーを余計に必要とするのである。重い体重を地面に押しつけることとなるため、血液循環と呼吸にかかる負担が増すからである。大人の雌馬は牡馬や子馬よりも、横になる時間がすくないほどである。
競馬の動物学より 11.23
下ネタです。
Anti-Pollution Ring というものがある。直訳すると「遺精防止リング」である。日本では厩の人達は単に「わっか」といっているようである。何十年来の競馬ファンでも、「わっか」などといっても知らない人が多いであろう。
馬房内にいる馬を長い期間にわたって観察した事のある人なら、きっと牡馬がそのシンボルをもって腹をたたき(俗にいう腹太鼓をたたき)ひとりで悦に入っている有様を見とことがあるに違いない。
道学者にいわせればそれ小人閑居して不善をなすのたぐいか、というようなことであろう。
競走馬の馬房内で精力を浪費して貰っては困るというので考え出されたのが、この「アンティ・ポリューション・リング」である。
このリングをグランス・ペニスのうしろのところにはめておくと、馬がひとりで楽しもうとした時に締め付けられるのでペニスはもとの状態にもどらざるをえないというわけで、同じリングと名がついても、エンゲージ・リングなどと違いすこぶる不粋なものである。
馬が口がきけたらきっと「我々の自由を束縛するのはけしからん」と言うことであろう。
このリングはだいたい二つの型がある。指輪のようなものと、これでは中の方にずっていっては困るというので、これに鉄兜のような形に十文字をつけたものとがあり、さびないように鉄にメッキしたものや合成樹皮などで出来ている
「競馬界を引退し種牡馬になるときには、必ずこれをとることを忘れてはならない」と、とても丁寧にあちらの物の本には書いてある。
続・趣味の競馬学より 11.17
年間1万頭以上生まれるサラブレッドの行く末やいかに?
1992年、日本で生まれたサラブレッドは約1万1000頭。地方・中央を合わせて年間に受け入れられるサラブレッドの数が約7000~8000頭と推定されるから、この頭数では競走馬になる前に数千頭のサラブレッドが「淘汰」されてしまうこ計算になる。
悲しい事だが、競馬ファンとしてこの現実に目をそむける訳にはいかないだろう。多くの中から走る馬が選ばれていってこそ、強い馬が誕生するという考え方もある。
こうした「淘汰」。やはりその主力は食肉となることだ。1991年の1年間に食肉用としてホルスタイン協会早来市場に持ち込まれた軽種馬(アラブを含む)の数は、2383頭。うち約9割の210頭が取引された。
内訳は、当歳78頭、2歳158頭、繁殖牝馬も含めた3歳以上が1556頭。価格も当然のことながら下落傾向にあり、当歳で(たったの)2000円~28000円。2歳で1万円から10万円。繁殖牝馬は1000円から60万円まで幅が広い。
これでは種付料やカイバ代はおろか、市場へ持ち込む際のガソリン代にもならない。困窮の末、闇夜に他牧場へこっそり紛れ込ませるという前代未聞の事件まで起きているほどだ。
馴致や調教を経て「能力が無い」ことがわかってから淘汰されるのならまだ救いがあるが、こうした淘汰馬の中には、当歳や2歳で血統だけから判断されて食肉となる馬もいる。もしかしてその中に未来のダービー馬がいるかもしれないと考えると、せつない。
なおこの淘汰を経て、血統や馬っぷりが評価されて中央競馬に登録され、しかもケガや病気にもならずデビューできる馬は年間3500頭程度。このうち4歳のダービーまでに1勝できる馬が約800頭。重賞を経験できる馬が約200頭。ダービーのゲートに入れる馬がご存知のように18頭で、ダービー馬は1頭だけ。生産頭数が多いほど超難関となるのである。
かつぶー≫この本が出たときはまだバブルの時だったので今はこれより少ないとは思いますが、やはり全部が全部競走馬になるわけではないのは確かでしょう。私が競馬関係の仕事に就きたいと言った時、このようなことを話して「この事がわかっていて、その仕事に就くのは許さない」と先生に言われたことが頭に浮かんできます。多分皆さんも知っている事とは思いますが、きっとこの事を考えまいと思って仕事をしているのでしょう。そうでないとやっていけないです。「走るために生まれる」なんて格好いい事いってるけど、「馬肉になるために生まれてくる」馬もいるんだと心に留めておいてもいいでしょう。
競馬なんて所詮人間のエゴだから。それをわかっていて競馬をやるんなら私はいいと思います。
大人のための「読む」競馬より 11.8
競馬ファン必携、予想紙のスタートは第二次世界大戦後。
競馬専門紙の歴史は古い。1907年(明治40年)10月に「競馬雑誌」という名の雑誌が発刊されたのが、我が国の競馬専門紙(誌)の走りといえる。同じ年の11月には「競馬世界」も発刊、1911年には「日本之産馬」、1916 年に「九州馬事月報」と相次いで創刊された。
ただしこれらは予想紙というより畜産振興や、競馬のレポート、競馬四季報的な記事を掲載したものであった。
予想紙が一般に出回るようになったのは昭和になってから。さらに今のような多くの予想紙が店先に並ぶようになったのは、戦後の競馬復活以後のことだ。
戦争のため中断していた競馬が1946年(昭和21年)秋に復活したのを機に、戦前からあった啓衆社が「ケイシュウニュース」を発刊。「競馬研究」も復刊した。ホースニュース社も「馬」を創刊し、これに「ダービーニュース」が創刊され、中央競馬予想紙は4紙の態勢でスタートを切った。
1950年には「競友」と「日刊競馬」は創刊された。62年に「勝馬」、66年に「1馬」と競馬の降盛とともにつぎつぎと産声をあげた。71年には関西の「競馬ブック」が関東に進出し、同じ年にサンケイスポーツが「競馬エイト」を発刊、専門紙の世界に参入した。
またJRAの月刊である「優駿」も歴史h古い。かつての日本競馬会から1941年(昭和16年)5月に創刊された。当時は1部30銭で市販されていた。太平洋戦争の戦局の悪化とともに用紙の供給に苦労したが、1945年(昭和20年)1,2月合併号まで発刊を続けた。その後休刊となり、復刊は1946年 3月号から。
今ではカラー写真満載のビジュアルな誌面構成となっているが、20年ほど前までは競馬専門用語が飛び交い、とても素人には判読できないような内容だった。競馬の大衆化とともに一番変わったのは「優駿」かもしれない。
かつぶー≫もう今はITですからね。そのうち競馬新聞もなくなるかもしれませんね。でもあの活字でないと閃かない、という事もあるので続けて欲しいものであります。
大人のための「読む」競馬より 10.31

